ひがしくるめの花ごよみ(ウメ 第2回)


ページ番号 1016867 更新日  令和3年2月17日


ウメ (第2回)米津寺(幸町4−1)、多聞寺(本町4−13)、黒目川(金山町2−3)

米津寺
本堂の西側の白梅が満開です。

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多聞寺
山門脇の紅梅が咲き始めました。

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黒目川(金山町2−3)平和橋下流左岸 藤棚やベンチがある付近
この付近に2本あり、咲き始めています。

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梅の歴史(2)

奈良時代 梅枝をかんざしに − 万葉集

 毎年、春がやってきたら、こうして梅を髪に挿して、楽しく飲みましょう。万葉集は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集です。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌が、なんと4500首以上も集められています。中でも梅を詠んだ歌は萩に次いで多く、なんと118首もあるそうです。昔は、花と言えばまず「梅」を指していたほど、万葉の人々から愛されていました。

 

年のはに、春の来たらば、かくしこそ、梅をかざして、楽しく飲まめ
(毎年、春がやってきたら、こうして梅を髪に挿(さ)して、楽しく飲みましょう。)


梅の花をかんざしに・・清楚で小粋ですね。

平安時代 梅干が日本最古の医学書に

 平安時代に丹波康頼撰が著した日本最古の医学書『医心方』の「食養編」には、すでに梅は梅干として登場します。「味は酸、平、無毒。気を下し、熱と煩懣を除き、心臓を鎮め、四肢身体の痛みや手足の麻痺なども治し、皮膚のあれ、萎縮を治すのに用いられる。下痢を止め、口の渇きを止める」と記述されており、人々のあいだで梅干が薬用として用いられていたことがわかります。
また、後の江戸時代の辞典、和漢三才図会にも梅は記載されています。昔からさすが梅は薬の意味合いがあったのですね。

梅枝の鶯へ

 平安時代のこと。御所の梅の木が枯死したので代わりの木を探し求めさせたところ、歌人・紀貫之の娘の屋敷の梅が名梅であるとして御所に移植されることになりました。
別れを惜しんだ娘は「勅なればいともかしこき鶯の 宿はととはばいかがこたへむ」(帝の御命令でございますこと、贈呈致します。しかし、毎年この庭に来てこの梅の枝に宿る鶯が我が宿は如何したかと尋ねられたならばさてどう答えたらよいのでございましょう)という一首を詠んだところ、村上天皇の目にとまり、哀れに思った天皇の命で梅の木は娘の元に戻されました。
この逸話の梅を「鶯宿梅」と称します。

 

株式会社トノハタ(本社:和歌山県日高群みなべ町)ホームページより許可を受けて再掲

https://www.tonohata.co.jp/ume/history

 


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