ページ番号 1002401 更新日 平成30年1月16日
安政4年(1857年)に造られた石碑で、梅の植樹をしたことが記されています。
そのなかに、「来梅ノ荘の里」や「来梅川」と書かれており、「くるめ」の名称が初めて登場します。
江戸時代の旗本の墓所が浄牧院のなかにあります。
神谷家は南沢の領主で、九代にわたる当主や親族の墓碑があります。鈴木家二代の大きな宝篋印塔の墓碑も現存しています。
縄文時代中期を主体とした大きな遺跡。
市民参加の発掘の先駆的な例で、市の遺跡保存の原点となった場所です。現在、市街をみおろす高台に4000平方メートルが遺跡公園として整備されています。
筆子塚は、江戸時代から明治期にかけて、寺子屋などで手習を受けた人たち(筆子・ふでこ)が、その先生の師匠を偲んで造りました。この筆子塚は、安永4年(1775年)に造立(高さ66センチの石製)された市内最古のものです。
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